こんにちは!
昨日は人間の良心、そしてそれを保つために宗教が一役買っている事を話しました。
人間である以上ある程度の良心、罪悪感などの心の機能は同じです。
もちろん人によってその度合いや感じ方やそれに対する反応は違うと思います。
そして精神疾患として人間の良心などを持たない、または違う風に感じる人たちが存在するのは事実です。
レイプ犯や連続殺人犯やある種の発達障害などは生まれつきの精神疾患としてDSM-5(セラピストや精神科医が使う診断マニュアルです)にも載っています。
だからここではそう言った疾患を持たない人たちの事を話しています。
さて人間の良心や尊厳を阻むもの。それはもちろん人間のエゴ、欲、嫉妬、怒り、不安感、悲しみなどです。
そのエゴを乗り越えられない時に人間は楽になろうとして良心や尊厳に反する行動を起こすのです。
でも私はこの「苦悩」(つまりエゴの事だと思います)は悪い事ではないと思っています。
かのお釈迦さまもこの人間の「苦悩」を取り除こうと修行を重ねたのです。そしてそれでも人々の苦悩が失くならない事に涙してその涙からターラという女神、正確には右目から白多羅、左目からは緑多羅が生まれたと言います。
この話は先週も書きました。ひょんな事からこの女神の存在を知る事になりそれが私の人生を大きく変えたのです。
その事は私の著作本、「成功の法則ー幸せになるには」(文芸社)でお読みいただけます。
出版社さまとは再契約しましたので本を予約していただければ間もなく増刷して本屋さんに出る予定です。
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前にも書きましたがお釈迦さまにも苦悩があるのです。だから人間である私たちにあるのは当然と言えましょう。
でも辛い事があると自分は運が悪いのではないかとかおかしいのではないかとか色々な考えが浮かびます。
そしてそのエゴを乗り越える機会があります。それとともに失敗と呼ばれる出来事が芽生えたりします。
でもそれは「失敗」ではありません。ただ単に自分のそして周りの人たちのある種の期待通りに事が運ばなかっただけの事なのです。
期待通りに事が運ばない事を実は失敗と私たちは呼びます。
でもそれは「必要な経験」なのです。だから起こります。でも失敗と呼ぶのは私たち人間でもあります。
出来事は期待通りだったり期待を裏切ったりたくさんの事が起こります。そしてそれは全て学びの機会だと言えましょう。
多くの宗教がエゴを禁じています。僧や修道女、神父様などの地位につく人たちは多かれ少なかれ自分の欲、それは結婚であったりものを所有する事などを手放す事を迫られます。
髪を落として女性として魅力的になる事を諦めたり、自分の持ち物全てを投げ出し自分の衣(ころも)と托鉢に使う器だけが自分の持ち物となるのが仏教では基本です。
仏教の神や仏たちは聖人であった時はきらびやかな衣服や飾りを身につけていますが出家すると(これはつまり悟りを開いたと言う事だと思いますが)とてもシンプルないでたちとなります。
皆さんの中には断捨離などに凝っている方もいらっしゃると思いますが断捨離とは仏教から来ていてそしてその過程は本当に精神論です。
所有をあきらめると言う基本的な人間の欲を諦める事を促す行為なのです。
だから断捨離をするとものが少なくなるだけでなく自分の心も落ち着きを取り戻したりします。
今流行のゴミ屋敷などと言うのもものを捨てられないと言う考え方から来る実は精神状態、いわゆるシンドローム、疾患と言われるものです。
宗教は扱いを間違えるととても危ないものを禁じています。その際たるものはセックスだと思います。
たくさんの宗教がセックスをポジティブに捉えていません。とてもプライベートなものである事は事実ですが恥ではありません。
しかしながら恥であるとする宗教がほとんどです。
セックスほどパワフルなエネルギー交換はありません。心も身体も文字通り溶け合うものでありそしてこれは魂と魂の会話だと私は信じています。
そしてもちろん新しい命を作るものでもあります。新しい命を作るものが恥なわけが到底ありません。
しかしそれがパワフルであればあるほど扱いを間違えると大変な事になる事もあるでしょう。
人生において間違った方向に進んでしまう可能性もあります。
パワフルで扱いを間違えると大怪我をするもの、それはまさしく人間にもたらされた「火」のようなものです。
私たちも間違っても子供には火の扱いを許しません。
そう言った意味ではセックスは火よりももっとパワフルとみなされているのかも知れません。
だって大人にも大きな戒めを与えているのです。
さて宗教や人の心の話は明日のコラムに続きます。
素晴らしい1日を!!
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