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過小評価される美徳

最近、エネルギー(感情)について考える事があったので書きたいと思います。それは許しと正当化の事です。許しと正当化は本当に違うものだと思います。

例えば誰かがあなたの事を許した時、それだけであなたの間違いが正当化されたり取り消されたりする事はないのです。過激なケースですが例えばレイプの被害者の方々は自分の中の負の感情を手放す事が難しいのです。

それがどんなに難しい事か想像を超えていると思います。誰かが自分の許可なしに個人的なスペースに入り込み最悪の形で暴力を振るう。本当にひどい事です。

私の仕事は患者さんが自分の中の負の感情を手放すのを手伝う事です。しかしながらこの感情の手放しがレイプを正当化すると思うと手放しは不可能になります。

もちろん被害者の負の感情の手放しが加害者の犯した罪を正当化する事はありません。どんな事があっても間違った行いはそこにあるしあり続けるのです。

しかしながら負の感情を自分の中にキープする事がレイプ犯を苦しめたり罰したりする事にならないばかりかその負の感情は被害者にとっても何も得な事はないのです。

もっと言えば被害者が許さないと決めれば加害者の謝罪が被害者に許しの感情をもたらす事もありません。

負の感情は被害者だけを傷つけるのです。だから私はそれを手放す手伝いをしています。そしてこの手放しは本当に重要な事なのです。

私は割と簡単に人を許します。というかそれが許しと呼ばれるものなのか本当のところは分かりませんが負の感情や考えを持ち続ける事をしないようにしています。手放しを心がけているのです。

そうするのは自分のためだけでなく私を頼りにしてくれる私の周りの人たちのためでもあります。なぜなら私の憎しみや怒り、そして例えば道行く無礼な人たちまたは嘘つきや違反者への私の負の感情はその人たちを罰する事は出来ないばかりか自分の中にあるだけで気分が悪くなるものです。そしてそれは日常を生きる私たちには日々起こる事なのです。

自分の中の負の感情のせいで私は私のベストの状態からは遠くなります。それは私の愛するそして気にかけている人たちを傷つける事になるのです。

そんな時には私のエネルギーの波動は低く下がっているでしょう。そしてそれは周りの人たちに良い影響を及ぼしません。

負の感情を手放し許す時に私は損をするとか負けたとか思う事もありません。それはひとえに催眠療法に出会ってから自分の中の負のエネルギーを少しづつ催眠療法によって手放して行き自己イメージを高めていったからです。

私の許しは私自身と私の周りの人たちだけのためでなくこの地球のためでもあると言えます。これは波動の事なのですから。

しかしながら私の許しは私の間違いや他の人の犯した罪を正当化するものではありません。そうです。私は私自身の間違いも許すのですがそれだからといってそれが私の間違いを帳消しにはしません。

他の人たちや私自身のために間違いを正す事も必要です。または間違いに出くわしたらそれは違うという事もやめないでしょう。ですが負の感情はその都度手放します。

負の感情を手放す事はいつも簡単ではありません。例えば誰かにひどく傷つけられたりすると難しくなります。そんな経験、誰でもありますよね。これに関しても私は本当に向上したのです。

まだ記憶に残っている数々の恨みのような感情を抱いた場面。そしてそれをなんども思い出してはどうやって復讐するか見返すか考えたものです。それは昔の話です。

個人的な事だけではなく映画やテレビでの復讐劇は数え切れません。数え切れない数のストーリーがありそのその復讐劇は時に本当に信じられないレベルや惨劇になっていたりします。

私たちの社会では負の感情、すなわち恨みを持ち続ける事を美徳だと思っていたりします。

私たちが知るべき事は負の感情を持ち続ける事は日常的に私たち自身を傷つけそして足を引っ張っているのです。

その昔自分が毎日どんなに疲れていたか覚えています。私はたくさんの負の感情を持ち続けそしてそれによって大きな重石を背負っていたのです。いつも風邪をひいたり体調を崩して今のように活動的でない生活を送っていました。

負の感情の手放しが上手く出来ないと傷つけられた相手にきつく警告する事になるでしょう。恋愛などではもしまたこんな風に傷つけるのなら別れるくらい言うと思いますね。

そして長くこの痛みや傷を持ち続けるほど許す事が難しくなって行きます。このサイクルを繰り返すと失恋や別れを経験しやすくなります。

それと同時に間違いを犯す人たちに間違いを正す事も続けるべきです。

根気を持って人を正すと言うのはいつも簡単ではありません。しかも似たような事を毎回言わなければいけないのは本当に根気が要りますね。誰にも覚えがあると思います。パートナーやお子さんなどとの会話です。

その人を気にかけたり愛していたりすればその人がより良くなれるチャンスをあきらめる訳には行かないのです。

特に心無い言葉に傷つけられたりすれば本当に同じようなセリフを繰り返しその人を正すのは簡単ではありません。。

だから愛は強くそして寛大で正しいのです。

例えばお子さんの間違いを正す、それはお子さんが良くなる事を助けているのですから。私も毎日うちの子供たちに小言を言いますがその際には負の感情をその都度手放しているのです。

実は私は謝罪なしでも許す事をします。小さいことで言えば公共の場での無礼な他人の行い、謝罪なしの場合ですね。

もし根に持ったら1日が台無しになるかも知れません。

個人的な場面では身内や大事な人など謝罪なしでも許します。それはどうしても謝罪できないと言う個人的な問題を抱えていたり意地を張っていたりするのだけれど悪かったと思っている事が分かるからです。

実は謝罪が誰かに誰かを許させると言う事はないと信じています。

許しというのはする本人の選択です。だから誰にでもどんな状況でも本人が決めればできるものです。私にもあなたにも。そして受け入れる事も同じです。

許すのも受け入れるのもたった一回の、または数回の、または度重なる間違いがその人の良いところやそれまでの良い行いの数々を取り上げるものではないと信じているからです。

これは日常でのポジティブな事に注目する習慣の一部です。もちろん世の中の悪いところやネガティブや人の失敗ばかりに注目して生きる事も可能です。でもそれが誰をも幸せにしないし、幸せな生き方ではないという事なのです。

歳をとるにつれて自分の中の痛みや傷は大きくなります。そしてその痛みや傷が許す事をますます難しくするのです。だから私は催眠療法により人々の中にある負の感情を小さくするお手伝いをしています。

心に刻むべき事は許す事によって損をするとかはなくそして許すから相手の再犯率が高まるという事もないと思います。

私たちは再び傷つきたくないという強い感情を持っています。過去の負の出来事をよく覚えているように私たちは出来ているのです。

もし傷つきたくないという強い感情がなければもっと幸せな日々が送れると思います。そしてそれは可能なのです。

誰もが許し合い寛大である。その方がきっと良い社会になるしそして幸せな生き方だと思いませんか。

学校などでは謝罪は本当に過大評価されていると思います。謝罪を求めたり強要したりするのは本当に個人的というか起きた事を正当化させたりなんとか収めようとしているように見えます。

しかしながらもっと重要な事は子供たちに負を手放す事を教える。負を持ち続ける事が自分を傷つける事だと教える事だと思います。

謝罪の強要は時々子供をトラウマに落としいれたりします。患者さんにもたくさんいらっしゃいます。

子供たちはもう十分罪悪感を感じきっていたりします。それに自分のせいではないとか無実の罪というのもたくさんあるのです。患者さんにもたくさんいらっしゃいますね。

許しこそ美徳です。そして過小評価されていると思います。

素晴らしい1日を!!


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